自然道傳説

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主観的考察、「餌付け」と「給餌」と・・・【暫定版】

今回、【暫定版】として公開します。

ここ最近、野生動物に対しての「餌付け」と「給餌」と単に「食べ物を置く」と言う事について、言葉の根本的な意味の取り違えから、様々に乱用されています。

言葉とは必ずその根本的な意味が存在し、そこには目的と手段、そしてその結果が何なのかと言う事を常によく考えて使い分けるのが当然であり、正しい日本語の使い方であると感じます。

今回はこの3つの言葉に関して、何が違うのか、例もあげながら、個人的な見解に基づき、書いていきたいと思います。

ここに書く事でお断りしたいのは、この考え方がどこの辞典に載っていたであるとか、どこの学者が言っていたであるとか、どこそこに載っていたとか、誰かが言っていたと言うことでは一切なく、大学で日本文学を専攻した管理人の全くの個人的な見解であることを念頭にお読み頂きたく思います。


さて、まずはそれぞれの言葉の持つ、根本的な意味と言う物から始めようかと思います。

【餌付け】

餌付けとは様々な場面で野生動物に対しての人間の行為で良く使われる言葉であります。
反対に野生動物に対してのみの場合に使われる言葉であることもまた、確かです。

そもそも餌付けとは一体何なのでしょうか。
その根本的な意味合いについて、先に書いた、目的、手段、その結果に関して書いてみます。

まず、目的に関してですが、読んで字の如く、餌を持って付ける事、それは一体どういう事なのでしょうか。
野生動物の種は一般的に考えて、厳しい自然界の中で生きており、それぞれに身を守るために独自の警戒心なくしては生きられない状況であると考えられますし、当然にそうであると考えるべきです。

その警戒心をどのように緩めるのかと野生動物たちにとって大変に重要な食べ物を掛け合わせた言葉が「餌付け」と言う事になりますでしょうか。

大きな目的に、食べ物を持って、野生動物の警戒心を緩めさせる。強いて言えば、野生動物を食べ物を持って人間に近づけさせる、慣れさせると言う事があげられると思います。

その手段に関して言えば、人間が食べ物を直接に野生動物に向かって与えると言う事が必須であり、食べ物を与える時と野生動物がその人間の与えた食べ物を食べる時、この2つの瞬間に人間が同時に野生動物から認識できる範囲に存在する事がなくしては成立しません。

その結果はどうでしょうか。
生きるために一番重要な食べ物を与えてくれる人間に対して、野生動物の本能的な部分から警戒心を緩めて、食べ物を与えてくれる、もしかしたら大丈夫な存在なのだと学習します。
その学習したことから、人間は害を及ぼさない、人間の近くに行っても大丈夫だと思い、人間の近くに本来の警戒心を緩めて近付くと言う事になります。

人間にとっては、野生動物を近づけさせたい、慣れさせたいと言う潜在的な意識があります。
その結果から言えば、食べ物を持って野生動物に対して、その目的を意識的にでも無意識にでも達することが出来たと言う事になります。

結論から言えば、「餌付け」とは野生動物と人間がその場に同時に存在する事が最低条件として、使われるべきです。
人間の無意識、意識的にかかわらず、野生動物に対して、その目的を持った行動は同時に同じくその場所で同時に存在すると言う条件のもと進行しなければ、「餌付け」と言う事は出来ないと考えます。

後でいくらかの例を取り上げたいと思います。

【給餌】

これは読んで字の如く、単に食べ物を与えると言う事です。

「給餌」は野生動物に対してのみならず、飼育動物や愛玩動物に対しても使われる言葉であり、更には野生動物の親から子への行動でも使われることもあり、大変に範疇が広い言葉でもあります。

この「給餌」と言う言葉の根本は食べ物を与えると言う単純な行為であり、そこには先に書いたような「餌付け」で書いたような目的などが存在しません。

手段としては「餌付け」と同じく、動物類と人間が同時に存在しますが、元々警戒心の緩い飼育動物や愛玩動物などに対してであれば、目的が存在しませんし、単に食べ物を与えると言う手段であるに過ぎません。

その結果に関しても、食べ物を与えたことによってその対象となる動物の何かが変わると言う事、または何かが変わるという期待も見受けられません。

結論的には、「餌付け」と「給餌」は意識と目的の違いであると言う事が言えると考えられます。

野生動物に対してはどうでしょうか。
そもそも野生動物に対して、「給餌」と言う言葉はあまり使われないように感じます。
どちらかと言いますと飼育動物や愛玩動物によく使われる言葉ではないかと思います。
強いて言えば、単に食べ物を与えると言う事から、「餌付け」とは全く違って、人間への警戒心を緩めさせる目的もなく、結果も期待していないと言う事になりますでしょうか。

【食べ物を置く】

これは読んで字の如くです。
それ以上は何もないでしょう。

基本的に「食べ物を置く」と言う事はその行為をする者が特定の野生動物の種を念頭に置いて行っていると考えられますが、結果的には、不特定多数の野生動物に対しての行為となってしまっていると言うのが現状ではないかと考えられます。

先の「餌付け」と「給餌」と言う行為の対象は、いわば普通に考えて特定の種です。
それに対して、「食べ物を置く」と言う行為は特定の種を対象にしながらも、結果的には不特定の種が対象になってしまっていると言うところが根本的に違ってきます。

目的としては、単に食べ物を与えたいと言う意識的な事だけで、「餌付け」や「給餌」に見られる目的は全くと言って良いほど存在しません。
食べ物を置いて放っておくだけでは本当に食べてくれるのかも分からないですし、また、その場所には同時に人間は存在してはならない、いや存在しないのです。
結局、基本的に目的は存在してもその結果は分からないと言う事が更に大きく違ってくると考えます。


ここまでそれぞれについて書いてみましたが、実のところ、それぞれ大変に難しい言葉でもあります。
実際に自分自身、上記のようには書いていますが、例外もあり得るのではないかと最近になって思い始めています。


それではいくらかの例をあげてみたいと思います。

【例1:観光地での野生動物に対しての餌やり行為】

最近は観光地で野生動物へ食べ物を与えると言う行為が見られる様です。
これに関しては、かわいいとか何かあげたいとか、要するに人間の単純な率直な考えから来る行動と考えています。
目的から言えば、その野生動物と触れあいたい、近付きたいと言う潜在意識が働いている事も否めませんが、その結果から言えば、その行為の繰り返しにより、野生動物が結果的に人間に近付いてきているだけであって、その行為をする人間にはその先の結果を意識する目的があるとは考えにくいです。

また、その行為をする人間は不特定多数であって、目的も一時的で定かでもありません。

しかし、野生動物と人間が全ての瞬間で全く同時に存在しますから、「餌付け」行為としたいところですが、目的が一時的で定かではなく、結果も意識されていないのであれば、「餌付け」とは言えません。

よって、観光地で野生動物へ食べ物を与える行為は、単なる「給餌」行為となると考えます。

ただし、特定の人間(毎日同じ所へ行って同じ行為をする、またはその場所を管理する、その場所にいつもいる)による行為となると反対に「餌付け」と言う事になるかも知れません。


【例2:一般的に野生動物に食べ物を与える行為】

これはあまりに範疇が広く、難しい問題もありますが、全体的に目的がある以上は「餌付け」行為となるのかと考えます。

例えば、特定の人間が特定の種に食べ物を与える事を想定すると行為をする人間にも目的があり、また野生動物と人間が全ての瞬間において、同時に存在する事から、ほぼ「餌付け」行為と考えられると言って良いかと思います。

【例3:公園などでの野生動物へ食べ物を与える行為】

これも範疇が広いですが、ここでは犬や猫などの愛玩動物に関しては除外して書きます。
公園などでの犬、猫の種へ食べ物を与える行為はもともと愛玩動物に対しての行為であり、その目的も薄いことから、単に食べ物を与える「給餌」行為と考えるからです。
また、犬や猫の種は野生動物とは言えないと言う事もあります。

例えば、よく見掛けることとして、鳥類撮影のために食べ物を置いて、鳥類を食べ物によっておびき寄せ、撮影をしている事があります。
これは写真を撮影するという目的があり、警戒心の強い鳥類を食べ物によって人間の近くに来させようとする確信的な意識があります。
目的がはっきりしている上に野生動物と人間が全ての瞬間で同時に存在しますから、これはれっきとした「餌付け」行為とすることが出来ると考えます。

また更には写真撮影ではなく、単に野生動物へ食べ物を与える行為も当然に見掛けることでもあります。
この行為は見ていると単に食べ物をあげたいと言う意識が先に立っているような気がします。

目的もそれほど定かではなく、結果も意識していない行為ではないかと思われますし、また単なる一時的なことでもあります。
そこから、公園などで野生動物に単に食べ物を与える行為は野生動物と人間が全ての瞬間で同時に存在はしますが、目的と結果の意識がはっきりしないために単なる「給餌」と考えるべきと思います。


【例4:熊森などでやられている行為】

これに関しては様々なところで議論が交わされてきました。
現在のクマ類の捕殺は大変な数に上り、生きものたちの生態系にも大きな影響を及ぼすことでもあります。

また、行政は先を考えることなく、人目に付いたら射殺などと言う蛮行を繰り返し、また何の根拠もない、春クマ駆除などと言う事を未だにやっている自治体さえあります。

そもそもクマ類の生息できる場所を奪ってきたのは誰なのでしょうか。
当然に人間であり、人間がその罪を償うべきはずなのに、まさに正反対のことを繰り返している現状です。

行政が何も出来ない、何もやらない、そして何も考えないのであれば、市民が立ち上がるしかないと言う行動自体は素晴らしい事であり、非難に相当することではありません。
自然生態系全体を考えても問題がない訳ではありませんし、確かに疑問もありますが、その行動自体が非難されるいわれはないと考えています。

さて、ここ最近、熊森でやられているドングリなどを山に運ぶ行為はどうなのでしょうか。
管理人は「ドンプレ」と言う言葉が大嫌いです。
そう言った言葉を熊森自体も使っているかも知れませんが、特に第3者が使っているのを見ると大変に腹が立ちます。

よって、ここでもその言葉は使いません。

その行為は単に食べ物の少なくなったであろう山の中で必死に生きているクマ類へ少しでも助けをしたいと言う善意から来るものと感じます。

そこにはクマ類を人間に近づけさせよう、慣れさせよう、警戒心を緩めさせようなどと言う目的は全く存在しません。
そして、基本的には特定の種を対象にしているとは言え、結果的には不特定の種が対象になってしまっていると言う事もはからずもあるでしょう。

そう言った目的がない事からも、また、どの瞬間においても野生動物と人間が同時に存在する事が全くない事からも、「餌付け」とは到底言えず、「給餌」とも言えません。

よって、この行為は単なる「食べ物を置く」行為でしかないと言う事になります。

結果的から言うと、その行為によってクマ類が人間に近付いたと言う事を言う人もいるでしょう。
しかし、それは結果論であって、目的と結びつきません。
目的がない以上、結果は予期せぬ事であって、そうだからと言って目的のある行為とは見なせません。

まだまだ様々な例があるでしょう。
また、様々な考え方があるでしょう。
しかし、管理人の考え方は上記の通りです。

今回は思いつくままにさっと書いてしまいましたが、時間のあるときに再度見直して、訂正や追加などをしていきたいと思います。

また、例などもまだまだ多くあると思いますから、更にことあるごとに追加をしていきたく考えています。

今回、【暫定版】として公開します。
【完成版】となった時点でホームページの1ページに加えたく思っています。









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全ては、かけがえのない自然、そして共に生きる生き物たちのために日々の新聞、所属団体の会報などから自然、環境などについて、幅広く取り上げていきます。
本来の目的は各所属団体のすばらしい会報を紹介することですが・・・。

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