自然道傳説

全ては、かけがえのない自然のために、ともに生きる生きものたちのために・・・。

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【主観的考察】最近の放射能汚染について

【主観的考察】ここ最近の放射能汚染に関して感じる事

主観的に思いつくまま書いています。

福島原発の事故から、早くも半年以上が過ぎた今現在ですが、未だに事態は収拾が付かない状況のようです。

自分自身、特に考えてもいなかった、放射性物質による被爆と言う物が最近特に気になるようになって来ました。

まだまだ遠い場所での出来事、特に気にすることはないし、大丈夫と思っていたのは大間違いで多くの危機的状況が懸念されるように感じられて来ました。

自分の身近でも決して安心はしていられないことが、今日様々に見た動画や読んだ本などから分かってきました。

実際にシーベルトとか言う単位さえの認識もない中で、被爆によって体内の細胞がむしばまれていくこと、再生が可能でも継続的には異変を起こしていくことなど、大変に恐ろしい実態をも知りました。



【食物】

食物に関しては全く気にせず、原発事故以前からと同じような食生活、入手ルートで摂取していますが、これもたいへんに危険であることが分かってきました。

まずは産地、被爆された食物を摂取すれば当然に被爆するわけですが、今までは別に問題ないし、大丈夫だと思っていました。
しかし、この放射性物質とは「蓄積される」と言う性質もある様で、その蓄積が大変に脅威であり、汚染された食物を取り続けると言う事は自殺行為にも似たことだと認識し始めました。

そのためには産地の確認(偽装もあるので信用できるもの)や産地記載のない物は取らないとか、様々な自己防衛対策が必要になってくるのではないかと感じられます。

元々、外食は殆どしない方ですので、外食における脅威は更に外食をすることを一切しないと言う事で回避できそうです。

どちらにしても完全菜食者にとっては非常に苦しい選択を強いられる事ではないかと思われてなりません。



【日用品】

日用品に関してはどうなのでしょうか。
食物などは直接生活に関わる事だけに大きく取り上げられますが、普段使用している日用品などには脅威はないのでしょうか。

日用品も様々な物があるかと思いますが、やはりこれも産地で対応していくしかないのでしょうか。



【居住地】

管理人は生まれてこの方、ずっと現在の所に住んでいますが、居住地も考え直さなければならないのかと思うと大変に心の痛むことでもあります。

どこかの大臣が、事故での汚染瓦礫を全国に受け入れさせるなどと言う、とんでもない事を言い出し、管理人の住んでいる、東京都でも知事が勝手に汚染瓦礫を受け入れると言う表明までしてしまいました。

その汚染瓦礫を受け入れるとしたら、東京湾岸部しかないと思っていたのですが、予想通り、東京湾の中央防波堤と言う場所のようでした。

中央防波堤と言えば、東京湾の中でも管理人の住んでいる場所から見ると距離的にも一番近い場所であり、距離的にも10km~15km内外の場所です。

こんなに近い場所に汚染瓦礫が続々と受け入れられていると思うと、これはただ事ではないですし、この先何があるか分かりません。

汚染瓦礫をどのように受け入れ、処分しているのか知りませんが、少なくとも今現在住んでいる場所は大変に危険であると言う事が考えられそうです。

当然、国や東京都は大丈夫と言うでしょうが、行政が信用できる訳がありませんし、自分で状況を見て考えていくしかないものと考えています。

ちなみに千葉県ではとんでもない知事が水源地である山に汚染汚泥を受け入れているらしいです。
水源地となるとその場所だけではおさまらない、大変に広い範囲での汚染が懸念されると考えられます。

東京都にしろ千葉県にしろ、一体何を考えているのか、全く理解が出来ません。
とんでもないのは、それよりも全国各地に分散させるという国の方かも知れません。この国は国土を汚染列島にするつもりなのでしょうか。どこも安心して住むことが出来ない国となったかに感じられます。



【フィールド】

そして、東京都でこの汚染瓦礫の受け入れられている、中央防波堤のすぐ脇には管理人の良く行く、また気に入りのフィールドがいくつかあります。

すぐ横には、東京港野鳥公園があります。
そして、大井埠頭中央海浜公園、なぎさの森があります。

人工で出来た自然公園ではありますが、今ではかなり自然に近い状態で多くの生きものたちのよりどころになっています。

そう言った場所がこの先どうなってしまうのか、今までの努力が無になってしまう様な事がないのか、大変に心配されることです。

また、少し行けば、多摩川河口干潟や千葉県の三番瀬、谷津干潟、海を越えれば、盤州干潟などの貴重な干潟があります。
これらの自然環境に影響はないのか、特に生息する生きものたちへの影響はさることながら、問題は渡り鳥と言われる種類への影響です。これは国際問題にもなりかねない特に重大な事項であると考えます。
これに関しては、今後の動向を特に良く見て行きたいと考えています。

まさに国と東京都は金と利権のために貴重な東京湾の自然すらも、また生きものたちも全て無にしようとしているかに見えてなりません。



【仕事上での事】

一番気になるのは仕事上でのことです。

管理人の仕事は土木関係ですが、その中でも特に道路関係をメインに扱っています。
何が怖いかと言いますと、ここ最近はリサイクルの重要性が叫ばれ、殆どの自治体で道路舗装に使用する路盤材(砕石)やアスファルト合材は再生材を使用することが大変に多くなって来ました。

その再生材とは建物の解体などで出たコンクリートや道路舗装材の廃棄するものとか、要するに瓦礫類を破砕して、それによって、新たに砕石や道路舗装材を生産するというものです。

ここで怖いのは何かと言いますと、破砕できる瓦礫類なら何でも基準を満たしていれば、再生材として使用が出来ると言う点です。

現行のシステムではこの瓦礫類は産業廃棄物と呼ばれ、排出事業者と収集運搬業者、処分者がきちんとはっきりしていれば、特に何を調べると言うわけでもなく、受け入れが可能です。
収集運搬業者や処分者にはそれぞれ知事などの許可が必要ですが、こんな物は形式的な物でしかありません。

何が言いたいかと言いますと、この瓦礫類が汚染された物であるか、汚染されていない物であるかなどのチェックなどは全くやっていないですし、仮に汚染された瓦礫類が入ったとしても現状のシステムでは全く分かりません。

と言う事は、汚染された瓦礫が仮に入っていたとしたら、それが再生されて、町の道路の材料になるのです。
想像が付きますでしょうか。場合によっては、道路も安心して使えなくなると言う事です。
汚染された道路、こんな状況を誰が予測するでしょうか。

それ以上に、そう言ったものを扱う管理人の仕事も大変に危険性があると認識せざるを得ません。


そして、道路ついでに、良くアスファルト舗装ではない、ブロックを敷き詰めたような舗装がありますが、インターロッキング舗装であるとか、レンガブロック(タイル)舗装であるとか、またはコンクリートによる、コンクリート舗装であるとか、タイル舗装であるとか、平板舗装であるとか様々な種類があります。

こう言った、舗装の材料となるものの生産地は殆どが東北地方です。
ここにも何か心配するべき事が隠されているような気がしてならないのは管理人だけでしょうか。

もはや、我々の生活する道路も安全ではないかも知れないと言う事です。



【新築住居】

とある大手セメント会社には、汚染されたセメントを使えと言う指示が来たと言う様な話も伝わって来ています。

と言う事は、日本のセメント材料、コンクリート全てが汚染物質となってしまうと言う事です。

また、骨組みに使う、鉄骨や鉄筋などの材料はどうなのでしょうか。

これからの新築物件はセメントが汚染物質であることが確かならば、すなわち全てが汚染された物件となると言う事です。

汚染された材料で作られた家に住むなどと言う事が想像できますか。
最悪の場合、そう言った事が当たり前の世の中になってしまうのかも知れません。

これを回避するためには産地のはっきりとした木材を使った、木造の家とするしかありません。
内装材にも気を遣えば、回避できるでしょう。



【結論】

いくつかの項目で主観的に気になる事を思いつきで書いてみましたが、これから、この国ではどことして安全に、安心していられるものはないと言う事です。
常に危機感を持っていないといつでも放射能の被爆を受ける要因が多くあろうと言う事です。
まだまだ、危険な因子は多くあるかも知れません。
更に様々に考えて、追記していきたいと思います。

もはや、この国は住むところではなくなった、と言う感が大変に強くなっています。







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  1. 2011/10/21(金) 03:14:21|
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主観的考察、「餌付け」と「給餌」と・・・【暫定版】

今回、【暫定版】として公開します。

ここ最近、野生動物に対しての「餌付け」と「給餌」と単に「食べ物を置く」と言う事について、言葉の根本的な意味の取り違えから、様々に乱用されています。

言葉とは必ずその根本的な意味が存在し、そこには目的と手段、そしてその結果が何なのかと言う事を常によく考えて使い分けるのが当然であり、正しい日本語の使い方であると感じます。

今回はこの3つの言葉に関して、何が違うのか、例もあげながら、個人的な見解に基づき、書いていきたいと思います。

ここに書く事でお断りしたいのは、この考え方がどこの辞典に載っていたであるとか、どこの学者が言っていたであるとか、どこそこに載っていたとか、誰かが言っていたと言うことでは一切なく、大学で日本文学を専攻した管理人の全くの個人的な見解であることを念頭にお読み頂きたく思います。


さて、まずはそれぞれの言葉の持つ、根本的な意味と言う物から始めようかと思います。

【餌付け】

餌付けとは様々な場面で野生動物に対しての人間の行為で良く使われる言葉であります。
反対に野生動物に対してのみの場合に使われる言葉であることもまた、確かです。

そもそも餌付けとは一体何なのでしょうか。
その根本的な意味合いについて、先に書いた、目的、手段、その結果に関して書いてみます。

まず、目的に関してですが、読んで字の如く、餌を持って付ける事、それは一体どういう事なのでしょうか。
野生動物の種は一般的に考えて、厳しい自然界の中で生きており、それぞれに身を守るために独自の警戒心なくしては生きられない状況であると考えられますし、当然にそうであると考えるべきです。

その警戒心をどのように緩めるのかと野生動物たちにとって大変に重要な食べ物を掛け合わせた言葉が「餌付け」と言う事になりますでしょうか。

大きな目的に、食べ物を持って、野生動物の警戒心を緩めさせる。強いて言えば、野生動物を食べ物を持って人間に近づけさせる、慣れさせると言う事があげられると思います。

その手段に関して言えば、人間が食べ物を直接に野生動物に向かって与えると言う事が必須であり、食べ物を与える時と野生動物がその人間の与えた食べ物を食べる時、この2つの瞬間に人間が同時に野生動物から認識できる範囲に存在する事がなくしては成立しません。

その結果はどうでしょうか。
生きるために一番重要な食べ物を与えてくれる人間に対して、野生動物の本能的な部分から警戒心を緩めて、食べ物を与えてくれる、もしかしたら大丈夫な存在なのだと学習します。
その学習したことから、人間は害を及ぼさない、人間の近くに行っても大丈夫だと思い、人間の近くに本来の警戒心を緩めて近付くと言う事になります。

人間にとっては、野生動物を近づけさせたい、慣れさせたいと言う潜在的な意識があります。
その結果から言えば、食べ物を持って野生動物に対して、その目的を意識的にでも無意識にでも達することが出来たと言う事になります。

結論から言えば、「餌付け」とは野生動物と人間がその場に同時に存在する事が最低条件として、使われるべきです。
人間の無意識、意識的にかかわらず、野生動物に対して、その目的を持った行動は同時に同じくその場所で同時に存在すると言う条件のもと進行しなければ、「餌付け」と言う事は出来ないと考えます。

後でいくらかの例を取り上げたいと思います。

【給餌】

これは読んで字の如く、単に食べ物を与えると言う事です。

「給餌」は野生動物に対してのみならず、飼育動物や愛玩動物に対しても使われる言葉であり、更には野生動物の親から子への行動でも使われることもあり、大変に範疇が広い言葉でもあります。

この「給餌」と言う言葉の根本は食べ物を与えると言う単純な行為であり、そこには先に書いたような「餌付け」で書いたような目的などが存在しません。

手段としては「餌付け」と同じく、動物類と人間が同時に存在しますが、元々警戒心の緩い飼育動物や愛玩動物などに対してであれば、目的が存在しませんし、単に食べ物を与えると言う手段であるに過ぎません。

その結果に関しても、食べ物を与えたことによってその対象となる動物の何かが変わると言う事、または何かが変わるという期待も見受けられません。

結論的には、「餌付け」と「給餌」は意識と目的の違いであると言う事が言えると考えられます。

野生動物に対してはどうでしょうか。
そもそも野生動物に対して、「給餌」と言う言葉はあまり使われないように感じます。
どちらかと言いますと飼育動物や愛玩動物によく使われる言葉ではないかと思います。
強いて言えば、単に食べ物を与えると言う事から、「餌付け」とは全く違って、人間への警戒心を緩めさせる目的もなく、結果も期待していないと言う事になりますでしょうか。

【食べ物を置く】

これは読んで字の如くです。
それ以上は何もないでしょう。

基本的に「食べ物を置く」と言う事はその行為をする者が特定の野生動物の種を念頭に置いて行っていると考えられますが、結果的には、不特定多数の野生動物に対しての行為となってしまっていると言うのが現状ではないかと考えられます。

先の「餌付け」と「給餌」と言う行為の対象は、いわば普通に考えて特定の種です。
それに対して、「食べ物を置く」と言う行為は特定の種を対象にしながらも、結果的には不特定の種が対象になってしまっていると言うところが根本的に違ってきます。

目的としては、単に食べ物を与えたいと言う意識的な事だけで、「餌付け」や「給餌」に見られる目的は全くと言って良いほど存在しません。
食べ物を置いて放っておくだけでは本当に食べてくれるのかも分からないですし、また、その場所には同時に人間は存在してはならない、いや存在しないのです。
結局、基本的に目的は存在してもその結果は分からないと言う事が更に大きく違ってくると考えます。


ここまでそれぞれについて書いてみましたが、実のところ、それぞれ大変に難しい言葉でもあります。
実際に自分自身、上記のようには書いていますが、例外もあり得るのではないかと最近になって思い始めています。


それではいくらかの例をあげてみたいと思います。

【例1:観光地での野生動物に対しての餌やり行為】

最近は観光地で野生動物へ食べ物を与えると言う行為が見られる様です。
これに関しては、かわいいとか何かあげたいとか、要するに人間の単純な率直な考えから来る行動と考えています。
目的から言えば、その野生動物と触れあいたい、近付きたいと言う潜在意識が働いている事も否めませんが、その結果から言えば、その行為の繰り返しにより、野生動物が結果的に人間に近付いてきているだけであって、その行為をする人間にはその先の結果を意識する目的があるとは考えにくいです。

また、その行為をする人間は不特定多数であって、目的も一時的で定かでもありません。

しかし、野生動物と人間が全ての瞬間で全く同時に存在しますから、「餌付け」行為としたいところですが、目的が一時的で定かではなく、結果も意識されていないのであれば、「餌付け」とは言えません。

よって、観光地で野生動物へ食べ物を与える行為は、単なる「給餌」行為となると考えます。

ただし、特定の人間(毎日同じ所へ行って同じ行為をする、またはその場所を管理する、その場所にいつもいる)による行為となると反対に「餌付け」と言う事になるかも知れません。


【例2:一般的に野生動物に食べ物を与える行為】

これはあまりに範疇が広く、難しい問題もありますが、全体的に目的がある以上は「餌付け」行為となるのかと考えます。

例えば、特定の人間が特定の種に食べ物を与える事を想定すると行為をする人間にも目的があり、また野生動物と人間が全ての瞬間において、同時に存在する事から、ほぼ「餌付け」行為と考えられると言って良いかと思います。

【例3:公園などでの野生動物へ食べ物を与える行為】

これも範疇が広いですが、ここでは犬や猫などの愛玩動物に関しては除外して書きます。
公園などでの犬、猫の種へ食べ物を与える行為はもともと愛玩動物に対しての行為であり、その目的も薄いことから、単に食べ物を与える「給餌」行為と考えるからです。
また、犬や猫の種は野生動物とは言えないと言う事もあります。

例えば、よく見掛けることとして、鳥類撮影のために食べ物を置いて、鳥類を食べ物によっておびき寄せ、撮影をしている事があります。
これは写真を撮影するという目的があり、警戒心の強い鳥類を食べ物によって人間の近くに来させようとする確信的な意識があります。
目的がはっきりしている上に野生動物と人間が全ての瞬間で同時に存在しますから、これはれっきとした「餌付け」行為とすることが出来ると考えます。

また更には写真撮影ではなく、単に野生動物へ食べ物を与える行為も当然に見掛けることでもあります。
この行為は見ていると単に食べ物をあげたいと言う意識が先に立っているような気がします。

目的もそれほど定かではなく、結果も意識していない行為ではないかと思われますし、また単なる一時的なことでもあります。
そこから、公園などで野生動物に単に食べ物を与える行為は野生動物と人間が全ての瞬間で同時に存在はしますが、目的と結果の意識がはっきりしないために単なる「給餌」と考えるべきと思います。


【例4:熊森などでやられている行為】

これに関しては様々なところで議論が交わされてきました。
現在のクマ類の捕殺は大変な数に上り、生きものたちの生態系にも大きな影響を及ぼすことでもあります。

また、行政は先を考えることなく、人目に付いたら射殺などと言う蛮行を繰り返し、また何の根拠もない、春クマ駆除などと言う事を未だにやっている自治体さえあります。

そもそもクマ類の生息できる場所を奪ってきたのは誰なのでしょうか。
当然に人間であり、人間がその罪を償うべきはずなのに、まさに正反対のことを繰り返している現状です。

行政が何も出来ない、何もやらない、そして何も考えないのであれば、市民が立ち上がるしかないと言う行動自体は素晴らしい事であり、非難に相当することではありません。
自然生態系全体を考えても問題がない訳ではありませんし、確かに疑問もありますが、その行動自体が非難されるいわれはないと考えています。

さて、ここ最近、熊森でやられているドングリなどを山に運ぶ行為はどうなのでしょうか。
管理人は「ドンプレ」と言う言葉が大嫌いです。
そう言った言葉を熊森自体も使っているかも知れませんが、特に第3者が使っているのを見ると大変に腹が立ちます。

よって、ここでもその言葉は使いません。

その行為は単に食べ物の少なくなったであろう山の中で必死に生きているクマ類へ少しでも助けをしたいと言う善意から来るものと感じます。

そこにはクマ類を人間に近づけさせよう、慣れさせよう、警戒心を緩めさせようなどと言う目的は全く存在しません。
そして、基本的には特定の種を対象にしているとは言え、結果的には不特定の種が対象になってしまっていると言う事もはからずもあるでしょう。

そう言った目的がない事からも、また、どの瞬間においても野生動物と人間が同時に存在する事が全くない事からも、「餌付け」とは到底言えず、「給餌」とも言えません。

よって、この行為は単なる「食べ物を置く」行為でしかないと言う事になります。

結果的から言うと、その行為によってクマ類が人間に近付いたと言う事を言う人もいるでしょう。
しかし、それは結果論であって、目的と結びつきません。
目的がない以上、結果は予期せぬ事であって、そうだからと言って目的のある行為とは見なせません。

まだまだ様々な例があるでしょう。
また、様々な考え方があるでしょう。
しかし、管理人の考え方は上記の通りです。

今回は思いつくままにさっと書いてしまいましたが、時間のあるときに再度見直して、訂正や追加などをしていきたいと思います。

また、例などもまだまだ多くあると思いますから、更にことあるごとに追加をしていきたく考えています。

今回、【暫定版】として公開します。
【完成版】となった時点でホームページの1ページに加えたく思っています。









  1. 2011/01/02(日) 12:08:24|
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日本羽毛寝具製造業協同組合からの回答

先に疑問を抱き、質問のメールを出した、日本羽毛寝具製造業協同組合からの回答がメールで届きました。

その内容はどうなのか、期待を持ってメールを開封したのですが・・・。

内容は・・・

「ご質問についてお答えいたします。
 問:鳥の羽根の採集方法は。
  ・死んだ鳥、抜け換わった羽毛或いは、生きている鳥から
   採集されます。 」

このたった4行だけでした。

全く質問の内容を理解していないばかりか、小学校か幼稚園の問題→解答のような感覚です。

これではこっちの知りたい実態はわかりませんし、それともわからないようにわざとこんなふざけた回答を送ってきたのでしょうか。

まあ、返答が来ただけでもマシとするしかないかも知れませんが、こんなもので納得は出来ません。

最後の「或いは・・・」と言うのが大変に気になります。
或いは、ではなく、それが殆どなのではないかと思いたくもなります。

続いて、この回答のメールをそのまま返信して、単刀直入に「羽毛やダウンを採りたいがため水鳥たちを劣悪な環境で飼育、強制繁殖、殺して、ほしい物を採れば、用なしとして、生き物を物のように使い捨てにしているのですか。そう言う実態があるのかどうかを聞きたいのです。」と再度送っておきました。

また、もしそのような実態があるのであれば、所属する関係団体にも意見をあげて、畜産業界、毛皮業界、化粧品業界や動物実験と同様に問題にしていく考えであることも明記しておきました。

これで何なのか、やっとわかるのでしょうか。

わざわざ、先のメールには自然保護、動物愛護、生物保護関係の団体に所属する者ですと書いておいたのですが、全く読んだ人がわかっていないのか、洞察力がないと言うのか、ピントはずれも甚だしいです。

かけがえのない自然、そして共にこの地球上で生きる生き物たちのために。
  1. 2006/11/04(土) 21:24:00|
  2. その他
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ふとした疑問(羽毛について)

先日の動物実験に付随して、色々と調べていくうちに疑問も多く起こり始めました。

動物実験の続きはまた後日改めて書こうと思いますが、実際的にそれが医学的発展の貢献は殆どされていないこと、逆に医学的な発展を混乱に導き、遅らせている一つの原因であること、またそのために我々の税金から40~50億円もの予算が年間使われていることなどがわかってきました。

要するに全く無意味なことを多くの税金をかけ、いつまでもやっていると言うことです。

詳しくは後日に掲載したいと考えています。

さて、それに伴って、動物実験関係、毛皮の関係、健康の関係などあるのですが、ふと生活の上で疑問が一つ起こりました。

何故かどこにも取り上げられていない事ですし、良くわからないことなのですが、羽毛に関してです。

最近の健康ブームで羽毛布団などが良く話題に乗ります。
さて、この羽毛布団などの製品の実態は何でしょうか。

言わずと知れた、羽毛とは鳥君の羽、毛などの事です。
それをどうやって採取しているのでしょうか。

先日、そのことに関して、日本羽毛布団製造業協同組合へと疑問のメールを出しておきました。
もちろんいつもの通り、実名、住所、電話番号入りです。

さて、採取の方法ですが、うちはメールの中で「死亡した鳥から採取、または自然に落ちた羽や毛を集めて採取しているのですか」と一応書いておきました。

しかし、実際はどうなのでしょうか。

これは羽毛を採取したいがために鳥君たちの命を奪っていると言うことに他ならないかと考えます。

全くこんな物をほしいがために鳥君たちを過酷な劣悪環境で繁殖、飼育して、一番健康なときに生命を奪うと言うことです。
そのメインとなる種類はアヒル君であるか、ガンカモ科の種類であるかと思われますが、全くとんでもないことです。

人間はまたしても己の欲を満たしたいがために無数の鳥君たちの生命を知らずのうちの奪い続けているのです。

人間の健康のために、寝心地のためにこんな事をしていて良いのでしょうか。

人間は気持ちよく寝ることが出来るでしょうが、その陰では劣悪な飼育環境の中でアヒル君やカモ君たちが苦しみ、羽毛をもぎ取られ、物のように捨てられているのです。

これも今のところ、うちの所属する、もしくは知っている動物愛護団体では問題にしているところがないのが理解できませんが、全くあってはならない事、よく考えてほしいことです。

また先のメールを出した組合のHPには「自然が生んだ理想の健康器具」と言う表現がTOPページにありました。

「自然が生んだ」という言葉自体おかしいですし、はっきり言って、自然が生んだのではなくて、自然から搾取しているのだろうと言うことです。

こういったページは広告の意味も兼ねるでしょうから、表現不適切この上なく、そう言った事でも攻撃できるかと考えています。

まずは回答を待つしかありませんが、来ないようであれば、続いてメールを出そうと考えています。

どちらにしても、人間の身勝手な欲望から生き物たちの尊い生命を奪ったり、左右したりすることは出来ないのです。

この羽毛業界、やはりその実態は闇の中です。
そして、戦うべき相手は無数にあります。
  1. 2006/11/02(木) 06:50:49|
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宣戦布告です。動物実験について

先日、ある機会があって、動物実験の事について目にしました。

この動物実験、一般人には全く気にもしなければ、実生活で殆ど意識をしていないことです。

かく言う、うちもつい先日まではそうでした。

最近は野鳥関係から始まり、全国各地の自然保護、環境保護を推進する団体に入会、支援を進めていますが、ここでもう一つ何かが足りないと思っていました。

それは生き物たち全般、動物たちのことです。

それを考えるきっかけになったのが、この動物実験の事です。

何と1年間にこの日本だけでも医学のため、安全性の確認やらで2000万もの動物たちが実験に使われ、尊い生命を奪われて、さらには使い捨てにされています。

一体この数字は何を物語っているのでしょうか。
1日に直すと55000、想像も付かないほどの数です。

そこから実態はどうなのか、色々と調べてみました。

ここ昨今、動物愛護法改正に伴い、この動物実験に関しても色々と議論をされているようですが、全く進展があるとは思えません。

世界各国を見ても厳しい規制や法律が存在します。
しかしながら、この日本ではそのようなものが存在はしても全く無意味、行政も後ろ足、こんな事で先進国と言えるのでしょうか。
全くとんでもない先進国もあったものです。
全く世界各国から見ても現在の状況は先進国として大変に恥ずべきことです。

それにうちがいつも思うのは、人間ほどどうしようもない生き物はこの世に存在しないと言うことです。
うちもその人間の1人ですが、地球の生き物全体から考えるならば、これほどとんでもない、ふざけた種はないでしょう。

それはさておき、本論に戻しますと、この動物実験、想像も付かない数もさることながら、どのように実施されるのか、その方法、その後の方法、一切は全て闇の中です。

現在の医学の発展はこういったことで、犠牲になった生き物たちの上に成り立っていると言っても過言ではなく、またその恩恵にもあずかるところではないかと考え、それは確かに認めるべき事です。

しかし、その実験の不透明さは一体何なのでしょうか。

1,実験の不透明さ
  動物実験に関して、そのおびただしい数も全く理解できないが、それ以上に何の目的でどれだけ、またどういう方法で実験がされているのか、全く闇の中であること。

2,実験には大変な苦痛を伴う事
  この地にいる全ての生き物たちは同じく一つの生命、痛み、苦痛を伴わない生き物はいない。
どこかの実験者で「動物は苦痛を伴わない」と断言した学者がいたそうだが、全くとんでもない話である。

生き物の生命の尊厳を一体なんだと思っているのか、こんな奴らが医学界の発展に寄与しているのかと思うと腹立たしくなってきさえする。

動物実験は犬、ネコ、よく知られるものではモルモットなどまだまだ多くありますが、その実験は大変に過酷でいわば、大変に残虐です。生き物たちは大変想像を絶する苦痛に耐えながら、笑うことも出来ず、喜びもなく、短い一生を終えていくのです。

そんなことが人間として考えて想像ができますか。

うちの考えから言わせてもらうなら、いくら医学の発展、人類の健康への寄与のためとはいえ、これだけ医学が発展し、科学が進歩した現在、未だに昔と同じ方法で生き物を虐待し続けている意味がどこにあるのか、全く疑問です。

こんな事をやっている実験者の奴らをうちと同じ人間だなどとは全く思っていませんが、やはり残念、遺憾なことに人間なのです。

これは人間として、それ以前の倫理上の問題です。

3,無意味な実験の多さ
  動物実験が確実に必要というものももちろんあるでしょう。そこまで否定しようとは思えませんが、中にはそれ以外にとんでもない事が聞こえてきます。

まずは医学生の研修による生体の解剖、こんなものはいくらでも代替出来ることですし、生命の尊厳を教えなくてはならない中、逆効果も甚だしい。

仮に解剖をするとして、不慣れな医学生では麻酔も何もわからず、生き物たちはそれこそ想像を絶する苦痛を伴う。

たかが一つのことを証明するためにどれだけ失敗を重ねてどれだけ無意味なことをやっているのかをよく考えてほしいものです。

4,食物の毒味までも
医学のためだけではなく、我々が食べようとする食物の事前の安全性の確認にまで尊い命が犠牲になっています。

今の世の中、成分を分析すればわかる事で、わざわざ生き物たちに毒味をさせ、命を結果的に奪うなどと言うことは全く許されることではありません。

5,新薬開発
新薬開発に関して触れているところはなく、想像でしかありませんが、これも想像を絶することは言うまでもありません。
  
新薬のためにどれだけの尊い命を犠牲にすれば気が済むのか、全く理解の出来ないことです。


6,代替法をつかわない
この動物実験に関して、現在では代替法(生体を使わないで実験をする)も多くあるはずだが、どうしてか、その代替法を使わないで未だに生体実験を繰り返している。

その背景には実験予算の関係、生体実験の方がいわば結論も出ることも早く、手っ取り早いと言うことがあげられるかと思われる。

しかし、そんな金だかかる時間だなどのために尊い生命を犠牲にして良いのだろうか。

全くこれも理解に苦しむところである。

まだまだ色々なことがありますが、ここ数日で得た知識から思ったことを書いていますので、まだまだとんでもないことは多くあるでしょう。

要するに動物実験の必要性を全く否定はしないが、出来るだけ別の方法で済むように、尊い生命を無駄にしない方向に持って行く努力をすべきである。

現在の全ての実験者は見る限り、その努力をしているとは到底思えない。いやそんなことは考えていないだろうと思われる。

もはや血の通った人間ではない。
血の通った人間にそんな事が日常、平気な顔をして出来ますか。

あと、動物実験に付随して、まだ色々とあります。
我々が普段食べているものも尊い生命が犠牲になっていると言うことです。

ただ、その最低限にしておけば良いものを人間はさらに欲求を満たしたいがために尊い生命を己の欲求のために奪い続けています。
人間ほどどうしようもない生き物はいないと書いたのはそのことです。

①毛皮や革製品など
まずは毛皮や皮製品、まだまだあるでしょう。
それは一体どこから来ているのですか。
紛れもなく、生き物たちの大切な身体の一部です。
それを欲求を満たしたいがために、生命を奪うなどこれほどとんでもないことはありません。


②健康食品
健康食品の中には生き物たちの肝とか何だとか言うものが存在します。
食用としての死体から採取しているのなら、まだ許せる範囲かもしれません。

ただ、驚いたのは熊胆とか言うものです。
これは書いて字のごとく、熊の肝ですが、これも想像を絶する大変な虐待があります。

こんなものを採取したいがために熊は生きたまま、腹に穴を開けられて、生きたまま胆汁を搾り取られるのです。
大変な苦痛の中、熊はそれだけのために短い一生を終えるのです。

これが血の通った人間のやることですか。
全くもって信じられません。

どれも信じがたいことですが、全ては現実に行われていることです。

まだまだ書きたいことは山ほどあります。

ここで我々と同じく生きている生き物たちの事を考えてみてほしいのです。
この医学の発展、生体の解明などという理論を盾にして、無意味に多くの生き物たちの尊い生命を奪い続けている動物実験について考えてほしいと思います。

実験者は「生命の尊厳を持って」などと書いて、また言っていますが、日常のことになり、そんなことは思っていないでしょうし、でたらめも良いところです。
こういう人間が人間として倫理を持っているとはとても思えませんし、同じ人間の血が通っているとは到底思えません。

また、人間の欲求ほど罪悪な事はありません。

そんなに健康になりたいですか、そんなに肌を綺麗にしたいですか、またそんなに高価なものがほしいのですか。

こんな下らない人間の欲求のためにどれほどの尊い生命が奪われているのか、よく考えてほしいことです。

そして、行政はこの問題について、積極的に取り組むべきです。
①不透明な実態を公開、情報開示させる。
②実験施設を第3者によって視察させ、改善点を提案させる。
③実験施設の内部的な規定に任せる現在を脱して、行政が監視する。
④抜き打ち査察をする。第3者もそれに加える。
⑤行政が補助金を出し惜しまない。代替法を先行させる。
⑥悪質な実験者はいわば、動物虐待で処罰する。
⑦目的、数、方法、その他全てを明確化させる。

と言うことを確実に盛り込んだ立法が急務です。

動物実験、これは法律で言う、立派な「動物虐待」と全く同じ事です。
その実験者によって、その生き物たちは大変な苦痛を継続的に強いられ、生命を奪われるのです。
そして、捨てられるのです。
これが「動物虐待」以外の何なのでしょうか。
先にも書きましたが、こういった事をやっている実験者が血の通った人間とは到底思えませんが、全ては法律で言う「犯罪者」、また虐待者なのです。
それより前に完全なる精神異常者なのかもしれません。

かなり文章が長くなってしまいました。

まずは宣戦布告の第1回目として、「日本生理学会」に上記と同様のことを記したメールを送りました。

もちろん、自分の住所、実名、電話番号も明記してあります。

これから、色々な機関があるかと思いますが、そう言ったところにもメールでもちろん全て自分の住所、名前、電話番号入りでメールを送り、その対応を見て、行動していきたいと考えています。
まあ、無視されるのが落ちでしょうが、根気よくやっていきたいと考えています。

最後に生き物たちの尊い生命は人間の身勝手や虚栄で奪ったり、左右してはならないのです。
これがうちの考え方の大原則です。

そして、うちの主義ですが5年くらい前から徹底して実行していることです。
Ⅰ、肉類、魚類などの生物は一切食さない。
Ⅱ、家に殺虫剤は置きません。全ての生き物と共存します。
Ⅲ、生き物を捕ったりすることは一切しません。

うちはいわゆる無信教です。
宗教上の理由もなければ、単なる個人の考え、見解です。

また、誤解してほしくないのは単なる感情論でものを言っているつもりはないと言うことです。

人間として当たり前のこと、いやこの地球で生きている生き物としては当然のことです。
  1. 2006/10/28(土) 01:00:49|
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全ては、かけがえのない自然、そして共に生きる生き物たちのために日々の新聞、所属団体の会報などから自然、環境などについて、幅広く取り上げていきます。
本来の目的は各所属団体のすばらしい会報を紹介することですが・・・。

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